2020年1月7日。3:40。
寝れないのはいつものことだが、いつもとは違い、お酒を一滴も飲んでいない。
替わりに、帰宅途中のコンビニで買った牛乳を、寝れますようにと、願掛けといえばすこし言い過ぎだが、ゆっくりと眠りの方向に進みますようにと、飲んでいる。
以前、彼女にお酒を飲みすぎることを心配され、そのことに関して、やはりすこし心苦しく、体調もなかなか良くなる気配がないので、気休めではあるが、ちびちびとふだん飲みもしない牛乳を飲んでいる、というわけだ。
彼女とは今、距離を置いている。付き合って2ヶ月、喧嘩が多い。
あるとき、彼女が一枚の絵を送ってきた。今はそのことを考えている。
その絵は、彼女が過去に描いた作品を、デジタルで清書したものだそう。次のような絵だ。
「すこしごちゃついた部屋のベッドの上で、男女が同じ方向に頭を向け、横になっている。男性は眼を瞑って寝ている。女性は寝起きの赴きで、窓の方をぼうと眺めている。カーテンは風になびいており、まるでときが止まった瞬間を捉えたような、不思議な絵」
僕はその絵を見たとき、太宰のパンドラの匣のシーンを思い出し(てしまっ)た。
マア坊がひばりに「つくしにね、鈴虫が鳴いてるって言ってやって。」というシーンだ。
そのシーンとは状況は大きく違うし、女性側の心情も、きっとそれぞれ違うだろう。
ただし、僕とひばりとが感じた切なさは、同じものだと思えた。
その絵が、彼女と、彼女と以前同棲していたその彼とでなかったとしても、僕が感じたその感覚はまさしく、パンドラの匣のひばりが感じた「疎外感」そのものであった。
故意でなかったとしても、その事実がいまだ心に残る。
それが、どうにもこうにも、心の奥底にこびりつき、ふとしたとき、胸の内側でカリカリ、ギイギイと不快に騒ぐのだ。
「故意ではない」ということは、無知からくる行動であるように思う(多少きつい言い方をしているが、ここではあくまで一般論である、と強く述べておきたい)。
僕もよく失言する。そこに意図した理由がないことも、多々ある。
その度に、振り返る。自問自答を繰り返す。
それは他者にとってプラスになり得たか、と。
人生の価値は「他者になにを与えたか」によって決まる。
他者を傷付けず、侮辱せず。
他者を労り、喜ばせ、お互いに楽しむ。
その心がけこそが、ひいては自分自身を向上させ、人生の価値を高める一番の近道である、と。
その中で、僕がそう感じてしまったこと自体、お互いをマイナスに引っ張りあってしまっているのかもしれない。
いや、もしかしたら、それは自分だけであるようにも、思えてしまう始末。
さらに、バカの様子。ええい、そうではない、と自問自答。
嗚呼、どうして自分はこうも頭が悪いのか。とうとう、考えても仕方のないことだ、とも思えてきた。
話を戻そう。パンドラの匣のマア坊はさておき、彼女自身、心はもっと別のところにあるのかもしれない。僕がこの文章を書いているときでさえも。
そして、この文章自体ははたして、「他者に対して何かしらのプラスを与えられる文章」なのか?と、これまた自問自答をしながら、それでも、目を擦りながら、無心になって書いている。
最近は、自分の軸が掠れているようだ。
決して、ブレてはいないと、思いたいのだが、どうにも、その軸の輪郭がはっきりと捉えられなくなってきている。
自信を喪失している。
僕の書いた文章に意味があるのか。
そして、心を削りながら、人に対してなにかを伝えることが、はたして......
堂々巡りではあるが、今思っていることを書き留め、これでいいのだと、ノアの方舟が輝かしい未来に向かうが如く、きっと良い方角に向かうのだと、いいや、それではまるで、思考停止、浅ましくいやしいガキそのものではないか!と俯瞰していられる自分。
「君の意見には反対だけれども、君が意見を披露する権利を私は死ぬ気で守る」
分かってはいるけれども。それを貫くには、そうとうな心の摩耗が必要だそうです。
もっと勉強しなくてはいけない。
もっと教養を身につけよう。
お酒を控え、慎ましい生活を送ろう。
自分の軸を見つめ直すため。
パンドラの匣の中にいるような生活の中で。
片隅に小さな希望の石があることに、一縷の望みを抱く。
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パンドラの匣
2020.01.06