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okutaniのTwitter以上, ブログ未満な文章

30歳になってわかったこと

2021.01.20

30歳になって半年が経った。

やはり、年を取ると考え方も多少変わり、自身の中にある主張も輪郭を帯びてくるようになる。嫌な言い方をすると「ポーズ」を取りたがるようになる。

ポーズが強すぎて、自分のやりたいことなのに「自分のやる範囲ではない」などという人たちも、最近ちらほら見るようになった。ポーズの話は、また今度あらためて別記事で書くことにしよう。

30代に入って、理解したことが一つある。

「やりたいことには時間制限がある」ということだ。

巷では「今からでも遅くない」などと、甘い言葉で人を簡単に惑わす。そいつらは、他人に対する責任など一切ないのだから、ぴーちくぱーちく言いたい放題だ。言葉を受け取った純粋無垢なピュアボーイズandガールズたちが、その気になって人生を棒に振ってしまっても、誰も責任は取らない。

その「今からでも遅くない」を超えたとて、さまざまな障壁がある。

年を重ねていくと、恋愛やら結婚やらでどんどん身動きが取れなくなってくる。「恋人になにか言われるんじゃないか」「子供がいるのに俺は何をしようとしてるんだ」と。

「我に返る」という表現で逃げ続ける。やろうと思えばできるのに、いろんなことを引き合いに「やらない」という選択を、なにがなんでもしたいのだ。

加齢による「恥ずかしさ」もどんどん出てくる。「この年になって俺は何やってるんだろう」「周りにバカにされたくない、この年齢で辱めをうけるなんて惨めすぎる」。

誰に見られているわけでもないのに、心はどんどん小さく萎んで、そんな矮小な自分と向き合ったふりをして「やっぱりこんな馬鹿げたことはよそう」と結論づける。

「歌を歌ってみたい」「絵を描いてみたい」「写真を撮りたい」「楽器を演奏したい」「小説を書いてみたい」...

日常の中でそんなことをふと思った時、必ずその「恥ずかしさ」が一番初めについてくる。世間体というやつは、どんなに甘く見ても、見ないふりをしても、どこにいても、かんたんに僕らを見つけ出し、ズタズタに心を引っ掻き回し、すべてを台無しにしてしまう。

仮に、30歳を過ぎて、一念発起して絵を描くことを決めたとしよう。

プロのイラストレーターになりたい、と。そうすると、まずは一つ教室にでも通おうか?でもな、この年齢で初めましてで通っても、その教室の先生や生徒に馬鹿にされないだろうか?冷ややかな目で見られないだろうか?そうでなくても、これから新しい環境で適切にコミュニケーションが取れるだろうか?そもそも、この年齢でやろうなんて思うことが間違いではないのか...

そして、環境がどうとか、タイミングがどうとか、言い訳を言い訳で上塗りし、確固たる決意を持って「やらない」という選択をすることが大半だ。

一つ例にあげよう。僕の友達のT君の話だ。

T君はとくにこれといってなにをすることなく、20代を終えた。そんな彼と以前、いつもの安い居酒屋で飲んでいるとき、まだ作ってもない子供を引き合いにして「俺はもし自分に子供ができたら、その子供に自分がやりたかったことを託す。俺は教育に専念して、子供を立派に育てる。これから自分がなにかをするなんて、そんなこともうとっくの昔に諦めてるのさ。だから、自分のやりたいことうんぬんはもういいんだ。そのフェーズはもう終わったんだ」と。そうのたまっていた。なぜか偉そうにふんぞり返り、一切の恥ずかしげもなく、そう言い切った。まだ彼は30歳になったばかりだった。

僕はなんとも言い難い気持ちになった。結局、彼はなんでもいいから言い訳を作り、それを周りに吹聴して安心したいのだ。

たいていの人たちは「やらないこと」に対して、自分のマインドをうまくコントロールし、やりたいことに着手したとしても、大抵はうまくいかない。世の中はそんなに甘くない。

ギターを買ってみて弾いて、歌ってみて、一つ録音でもして、聴いてみて、そこではっと、気がつく。

iPadとApplePencilなんかを買って、有料のお絵かきアプリをインストールし、さぁて、準備は整った、これからがスタートだと、ざざっと自由に絵を描いてみて、そこで初めて絶望する。

「自分には全く才能がない」。それが本気であればあるほど、惨め、悲観、憂鬱、それからしばらくして怒り、憎悪、苦虫を奥歯で噛み潰し、心の奥がぐっとえぐられ、飯も喉を通らず、頭を抱えているうちに日が暮れる。

だからといって、やってもいないのに、理解しています、はいはい、分かっています、そんなに世の中は甘くないのです、知っています、という顔で、やってもいないのに理解したと言い聞かせ、なにもしない。

僕は30歳になって、こう考えるようになった。

「若いうちにやりたいことを全力でやっておく」

これが、どれだけ大事なことか。

周りの20代前半の知り合いを見て、僕は思う。

どうしてそんなに恥ずかしがるのだろう?

やりたいこととか、自分の人生のこととか、そういったことに触れるとき、必ず、躊躇いと恥ずかしさの面持ちで、「自分の人生には、もうぜんぜん関係がありませんから。そういうことには、自分はほど遠い、昔に考えてみて、すっぱりと諦めたんです。今が楽しいし、別に苦労もしていない。本当に、大丈夫なんです」と、取り繕い、装い、さも何事もなかったかのように日常に埋もっていく。

ふと、なにかの拍子、馬鹿みたいに頑張っている人が目に入ってしまうと、わあ、とんでもない、どうしてそんな馬鹿げたことができるのかと、目を大げさに覆ってみせ、ああ、浅ましい、そんなことは自分にはとうていできることではありませんと、横にいるアホ面の友人に「あんなにさ、頑張っててさ、馬鹿みたいだよね。ほんとうになにをしてるんだろうね。無意味だよ。みっともない。すこしぐらい恥を知ったほうがいいよね」と同調を誘い、馬鹿にして、安心し、アホ面の友人の方も、合わせてニコッと微笑み、アホ面をさらにアホにして、うんうんと深く頷く。

それは仕方のないことでもある。彼らは「自分自身がやりたいことに向き合えてないから」そうなってしまうのだ。本当にそれはどうしようもないことなんだ。

そして、彼らは、年を取るごとにどんどん数を増やしていく。恥ずかしさや諦めが、加齢に比例するかのように、そういう考えをより強く固めてしまう。

そう、自分もかつてそうだった。そのうちの一人だった。年を取ってやっと分かった。

若いうちに全力でぶつかって、理解しておく。そうすれば、年を取ったとき、やりたいことをやれるかどうかの判断がつく。

周りの頑張っている人たちを見ても、色眼鏡でなく、素直に「頑張っているね」と拍手でもって称えることができる。

小説が書きたかったら、今すぐ書けばいい。

大丈夫。すぐに絶望が待っている。

物事を絶望してから諦めるということは、とてもかんたんなことだ。すこしは傷つくかもしれないけど、理解していないより10000倍ましだ。

それを理解してから、すんなり辞めればいい。

でも、もしやってみて「その絶望を乗り越えたい」と思えたのなら、初めてそこで本当の扉が開かれるんじゃないかと、思う。

今が君史上、1番若い。

若い人がこの文章を読んでるかどうかはさておいて(自分もまだ30歳なので若い方だけど)、絶望を一度味わって、それからまたやりたいことに改めて向き合うことは、ぜんぜん悪いことじゃない。

ああ、かるく一つ文章でも書いてみようと思い机に向かったら、変に筆が進みぐだぐだと長い文章になってしまった。

ギターでも一つ弾いて寝よう。