修二は30代をぼんやりとした頭で送っていた。たまに入るライターの仕事を、100点とはいかないものの、そつなくこなし、フリーライターとしてはなにも困ることない生活、最底辺をもがきながらなんとかやりくりしているライターたちに一瞥の目を向けられるぐらいには、仕事をもらい、報酬を得ていた。ただ、贅沢な生活が送れるほどの報酬もらっているかと言われればそうではなく、十分満足ではなかったが、特にこれといった不満もなく、日々を過ごしていた。
吉祥寺から歩いて20分ほどの木造アパート。家具家電も、男の一人暮らしの中では良いものを揃えており、趣味のギターやら、好きなアニメのフィギュアやらがきれいに整列してあった。
週に1度は掃除をし、奮発して買った一人暮らし用のダイソンで床を掃除しているとき、修二はなんとも言い難い幸せを感じていた。けっして安くないその掃除機で部屋を掃除している自分に、ただ酔っているだけなのかもしれないが、これはいい買い物をした、ほんとーうにいい買い物をした…… と掃除するたびに口ずさんでいた。高い掃除機なんてバカらしい、どうせ部屋も掃除機も汚れるのにどうしてわざわざ高い掃除機なんて買うんだ、そんなもの買うやつはバカだ、もっと金は有意義なところに使うべきだ! などと考えていた5,6年前の自分を殴ってやりたいと思うほどに、修二の生活の中で一番に幸せを感じられる瞬間が、ダイソンで床を掃除しているときだった。それ以外に、幸せだと思える瞬間はもう何年も無かった。
女性なんかが遊びに来る予定など無い修二にとって、その部屋はとても居心地が良い空間だった。自分の趣味に囲まれた小綺麗な部屋。7畳ほどの独身男性の城。
買い物やカフェに行きたいときは、折り畳みの自転車を広げてすぐに吉祥寺に出られたし、自然に触れたければ井の頭公園を散歩し、誰かとしゃべりたいときはふらっとガールズバーにでもよって1,2時間お酒を飲み談笑して帰宅した。
修二には貯金がほとんどなかった。貯金をしてでも買いたいものは今までなかったし、車にも一軒家にも、一切興味がなかった。車にも一軒家にも興味がなかったのは、おそらく、結婚に興味がなかったのだ。思春期を機能不全な家庭で育った修二にとって、家族は憧れるようなものではなかった。ただ、別にそれでいいと思っていた。それを不幸せなことだと思ったことは、今まで一度もなかった。
ただ、修二の頭にはずっと、まとわりついて離れないことがあった。
何かを変えなくてはいけない。何か行動しなくてはいけない。
代わり映えのない生活の中で、修二は何かを変えたかった。
ある日、ぼーっと深夜のTVを眺めていると、田舎に別荘を買った女性をインタビューしている映像が流れた。その女性は修二と同年代ぐらい、華奢な体格、上品な雰囲気があり、まぁこれはTVだから、番組がそういう風に見えるメイクを施しているだけだからかもしれないが、ただ、その女性の表情から、わずかに影があるように感じられ、それが修二にとっては好印象で、より魅力的に見えてしまった。
その田舎の物件は、普段介護の仕事をしているその女性の収入でも購入できるぐらいの価格で、決して綺麗でも新しくも広くもなく、それでも、その女性が綺麗に掃除し、木のリースやら、小洒落た北欧風の家具なんかを置いていて、アンティークっぽいティーカップで紅茶を飲みながら、その女性は満面の笑みで堂々とインタビューに答えていた。
別荘の近くには、大人ならひょいと簡単にまたいで渡れるぐらいのサイズの小綺麗な川が流れており、たまにリスなんかが玄関先から眺めることができるんですよ、そのリスがすごくかわいらしくて、あとはね、まつぼっくりや枯れ枝を集めて、庭で焚き火などして、秋にはさつまいもを焼いてね、など、など、それから、休みが合う日は、お友達を招待してお泊まり会をするんです、みんなお酒が好きで、特にワインが好きだから、その日はちょっと良いワインをみんなで買ってきてね、もし、晴れていたら、机と椅子を庭に出して、そこで談笑しながら、日が暮れてゆく時間をみんなで共有するの、私にとってそれは素晴らしくて大切な時間なんです、だのと女性は話していた。
テレビにはよくある「いいところをうまい具合に切り取った映像」であった。よく考えれば、田舎の別荘なんか管理する手間もかかるし、毎回わざわざ便の悪い田舎に集まってくれる友人なんかいるだろうか。それに、最初のうちはリスだのまつぼっくりで焚き火だの、わーきゃーはしゃぐこともできるが、そのうち飽きて、別荘自体二束三文で売り払ってしまうに決まっている。ましてや、修二のような30代独身男性なんかが手を出していいものではないことは、初めから分かっていることだった。
ただ、今の変えようのない、水車で受けた水を流し、また水を受けて流す、また水を受け、流す…… とぐるぐると機械的に送る生活に飽き飽きしている修二にとって、この女性のインタビュー映像は衝撃的だった。独身男の侘しい城に、これでもかと主張するキラキラ映像がべったりと部屋のド真ん中に張り付き、修二はまばたきも忘れ、じっと眺め、その女性の一挙手一投足、部屋の細かい作りや間取り、使っている机の木目の柄までをも目で追って、その女性の一日の始まりと終わりを妄想するぐらいにまで、没頭しはじめていた。それからインタビューが終わり、ダイエット器具のCMが流れはじめたとき、暗がりのソファでだらしない格好で見ていた修二はソファからゆっくりとずり落ち、「これだ、これだ」とぼそぼそと小さくつぶやいた。
なぜ、その映像が修二の心を駆り立てたか、修二本人にもまったく理解できていなかった。もしかしたら、その女性が単純に修二のタイプの人で、ただ魅力的に見えただけだった、もしくは、田舎に別荘を安く持ち、生活の中に自分の中での非日常となる自然を感じる瞬間があることに、今の自分にとって十二分に意義を見出したから、はたまた、友人を招いて楽しくお泊まり会をしている様子を羨ましく思ったからか、よく分からないが、それらを俺は今から達成しなければいけない、今の俺にはこれしかない、と確固たる決意、もう後には引けないぐらいの覚悟まで、あっという間に気持ちがぶくぶくと膨らんでいた。
おもむろにふらふらと立ちあがり、冷蔵庫から3日前に賞味期限が切れた牛乳をゴクゴクと一気に飲み干した。30分後、トイレから出られなくなっていた。
次の日から、修二の田舎の別荘探しがスタートした。
(続く)
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短編小説「変化と恋と愛①」
2021.02.16