僕はとりとめもなく、愛について考えるとき、亡くなったばあちゃんのことを、どうやっても思い出してしまう。
今もこうやって文章を書いているが、やはり胸に込み上げてしまい、休みやすみ、書いている。
あの病室で「たいすけか」、と僕に声をかけてくれたばあちゃん。
僕は8年経った今でも、思い返し、夢に何度も現れ、その度に、必ず涙が溢れる。
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僕の家庭は、親父の酒で荒れに荒れた。
長男の僕は中3にして、家庭の異物と化した。
学校ではピエロ。家では仮面。
その二重生活は、僕にとって、とてつもなく重大な使命だった。
『僕が家庭をどうにか良くしなくてはいけない』
親父と刺し違えることになっても。
母は精神病院に通い始め、精神安定剤を飲んだ。
親父が酒を飲み、暴れ、机がひっくり返る。
ガラスの食器はすべて割れた。
3歳児が使う”おままごと道具”のようなプラスチックのコップとお皿だけが、食器棚に残った。
ヒステリックになってしまった母を救う、コンビニエンスストアのお弁当、5つ。
今思い返したら、とてもいびつな風景だったと思う。
毎日まいにち、家族ならんで、コンビニ弁当5つ。
僕ら兄弟3人は、母を救ってくれるコンビニ弁当が好きだった。いや、大好きだった。
代わりばんこに当番を決めて買いに行った。
毎日のコンビニ弁当は、僕らにとって、ほんとうに、なんの苦でもなかった。
母親がはやく良くなって、薬なんか飲まない生活に、一刻もすぐになって欲しかった。
それは、僕ら兄弟全員の、切実な、大切な、願いだった。
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若くして未亡人だったばあちゃん。
埼玉の朝霞へ、僕は練馬の自宅から自転車を走らせ会いに行っていた。
僕は最初こそ、一人暮らしのばあちゃんに気を使って、会いに通っていたような気がする。
でも、いつしか、めちゃくちゃな家庭から逃れ、ばあちゃんの家に一泊することが、自分自身のメンタルケアになっていたように思う。
一緒に笑点を見たり、僕がやるスーファミを覗き込んで褒めてくれたり、日課にしていた写経をコタツで一緒に書いたり。
「孫の中でたいすけが1番会いにきてくれるよ」
ばあちゃんには、家庭のことはなに一つ言えないでいた。
子供ながらに、ばあちゃんに頼ってしまうのは、なにか違う気がしていた。
ただ、ばあちゃんと2人、一緒にいれるだけで、それだけで僕は嬉しかった。
小遣いをくれるわけでも、勉強を教えてくれるわけでもない。
会話こそ、今となってはどんなことを話していたかさえ、すっかり忘れている。
だけど、ばあちゃん家で過ごした時間は、僕にとってかけがえのないものだった。
僕は毎年、夏になれば欠かさず、ばあちゃん家の周りの草むしりをした。
草むしりはめんどうだと度々思ったけど、やはり、素直に喜んでくれるばあちゃんが大好きだったから、僕は毎年欠かさず、数時間かけ、炎天下の中、草むしりをした。
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ある日、親父が母親を殴った。
椅子から転げ落ちて、母親は泣いていた。
僕の中でなにかが音を立てて壊れていった。
僕はそのとき、刺し違えてでも、と思っていたのに、結局なにもできず、ただただ、床で泣いている母親を、じっと眺めることしかできなかった。
親父は自分で殴ったのに、バカみたいに手にヒビが入り、親戚の集まりでは「転んで怪我をした」などとほざいていた。
その日から、僕と親父と9年間、口を聞かない生活が始まった。
「どんなことがあっても女に手をあげるなよ!」
そうやって言われ、育ってきた。
親父のことを、なにも信用できなくなっていた。
今までつけていた仮面が、段ボール箱に代わり、頭にすっぽりと覆い被ってしまったような、ただ飯を食うだけの置物のような、家族ではなく他人のような、家族なのに第三者、目も合わせず、声も出さず、日々をただやりすごす、そんな毎日だった。
親父に殴られても、僕は段ボール箱を取り上げられないよう、必死に頭に押さえつけていた。それは最後の希望のようなものだと、当時の僕は感じていたから。
あるとき、そんな苦悩を1人で抱えきれず、その件だけ、ふとしたとき、ばあちゃんに伝えてしまった。僕としては、本意ではなかった。
ばあちゃんは「そうか」と言って、すこし悲しそうにテレビを見ていた。
たぶん、ばあちゃんは薄々は気付いていたんだと思う。
「たいすけは間違ってないよ」
それだけ言って、また僕とばあちゃんは、いつもの通りテレビを見て、スーファミをやって、隣に布団を並べて、おしゃべりをして寝た。
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僕が23歳のとき、ばあちゃんが「腰がいたい」と言いだした。
ちょうど海外に行く用事があった親戚の家が留守になるらしく、そっちの方が広くて快適だということで、僕がめんどうを見る形でその家で寝泊まりしながら療養することになった。
大学院生だった僕はちょうど春休みで、ばあちゃんのことも心配だったし、10日ほど予定を空けて看病することになった。
話は少しさかのぼるが、親父は僕が高校に上がると同時に、家を出ていった。
家庭の異物、段ボール箱を被って第三者になった僕に、とうとう親父は耐えられなくなり、会社の寮に移ったのだった。
ただ、僕はといえば、そのおかげで薬をやめられた母親と弟2人、新しく4人家族模様の家庭に、どこか居心地の悪さを感じてしまっていた。
大学生になると僕は家を出て、一人暮らしを始めた。
話を親戚の家に戻そう。僕はスーパーで買ってきた食材を調理して、ばあちゃんと一緒に食べた。
僕が作ったうどんをおいしいおいしいと言って食べてくれた。
あとから分かったことだが、ばあちゃんはガンだった。
腰痛はガンの腫瘍からくるもので、気がついたときには、ばあちゃんの体のいたるところにガンが転移していた。
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「モルヒネを打ってもらってる」
病室で伯母さんが悲しみを含ませてそう言った。
腰にできたガンの腫瘍は全身に周り、ばあちゃんは身体中が痛いと言っていた。
ばあちゃんの顔は、モルヒネの影響か、人相がだいぶ変わってしまっていた。
かわいそうだと、親戚のみんなは話していた。
もう、長くないと思った。
ばあちゃんはたまに意識が戻り、僕も一度だけ病院に泊まり、夜中に目を覚ましたばあちゃんと、おしゃべりをした。
たくさん、いろんなことを、必死に話すばあちゃんに、僕はこんなにおしゃべりする人だったかな、と思いつつ「もう夜中だよ。早く寝な」と、僕は半分嬉しそうに言った。
ばあちゃんも「そうだな」と言いながら、また、おしゃべりを続けた。
それから数日して、ばあちゃんの意識がほとんど戻らなくなった。
僕の家族と親戚とで集まって、ばあちゃんのベッドを囲った。
親戚が思いおもい、それぞれ、ばあちゃんの思い出話なんかしていると、ふと、ばあちゃんが目を覚まし、みんなそれを見て、声をかけるが、もうばあちゃんは誰一人、分かっていなかった。
とっくの昔に亡くなった弟や、親戚の名前を、ばあちゃんは呟いていた。
自分の娘である僕の母親と伯母さんでさえ、自分の娘だと分かっていなかった。
僕はばあちゃんに「たいすけだよ」と声をかけてみた。
自分の娘さえ誰だか分かっていないのに、孫の俺なんか分かるわけがない。
すこし投げやりでもある僕の問いに、ばあちゃんは少しも考える様子もなく、こう答えた。
「たいすけか」
ただ、僕の名前を呼んでくれた。
たったそれだけのことなのに、僕はそのとき、とてつもなく、大きなおおきな、ばあちゃんの愛を感じた。
病室から出て、僕は声を殺して泣いた。
実際は、ぜんぜん声を殺せず、嗚咽しボロボロと涙を流す僕を見て、駆け寄ってきた伯母さんが「大丈夫」と肩をさすってくれたけど、たぶんそれが、僕とばあちゃんの、最後の会話になると、そう感じて、涙を止めることができなかった。
ばあちゃんは僕のことを愛してくれていた。
嬉しいのと、悲しいのとで、僕の顔面はぐちゃぐちゃになっていた。
ばあちゃんは数日後、亡くなった。
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愛犬のブルーが亡くなる前日、「ブルー。俺はもう帰るよ」と声をかけたら、最後の力を振り絞って、頭をあげ、僕のことをじっと見て、見送ってくれた。
美しかった母の手が、いつのころからかシミが増え、”おばあちゃんの手”になっているのを見てしまったあの日、僕は涙を堪えるのに必死だった。
家族だから愛を感じ、他人だから感じないとか、そういうことじゃあないと、僕は思う。
愛は、それが「愛だと感じられる心」が、作る。
ブルーが振り向いてくれた日。
母の美しさを憂いたあの日。
その心を持つことが、持つことこそが、愛を感じられる心を持つことこそが、僕にとっての「革命」なんだ。
今後の僕の人生「愛と革命」を恐れず、逃げず、真剣に、まっすぐに、向き合って、生きていきたい。
僕はこれからも愛を語るし、愛を探す。
探して見つかるものじゃあないのかもしれないけど、愛を見つけられるような心を、僕は常に忘れずに持っておきたい。
そして、それを毎日、日々、刹那、感じられるような、そんな立派で誇らしい人間になりたい。
愛と革命の、日々。
「たいすけか」
とあの日、あの病室で、声をかけてくれたばあちゃん。
それは、僕にとっての愛そのものだった。
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愛と革命
2023.04.25