いつだって僕は、ある条件下に於いて『時を止める』ことができる。
吉祥寺、井の頭公園。
中央線に意味もなく揺られる日々をいつもどおりに送るため、僕はひとり井の頭公園の橋の上、シャツのボタンは掛け違い、ところどころまばらに止め、顔はだらけ切って弛緩したどうしようもない表情、ある時は社会の窓すら開け放しで、平日の昼からやる気もなく、背中を丸めてとぼとぼと憂鬱に歩く。
サラリーマンは、僕のこんな姿を見たら、何に例えるだろう。こんな僕をすこしでも好きになってくれるだろうか。世間一般的に見て、社会不適合者のてい。
でも、僕は時を止めることができる。
ゆっくりと流線型をえがきながら、水面をすすむ鴨の動きが、だんだんと遅くなり、おそくなり、風に揺れる木々もしだいにスローモーション、人々の声と、葉と葉がこすれる音ははるか遠く、かすかな思い出だけをふとその場に残し、すべての事象はある一点に向かい、収束し、息を呑み、深呼吸しかけたその刹那、時は止まる。
…そんなことは現実にはおこらず、物理的にも、精神的にも、僕の時はあいもかわらず、すすむ。
思い出すことといえば、いつだってあの子やこの子やその子のことを、どうにかしてやりたいという、卑しい気持ちだけ。
妄想の中ではいつだって、井の頭公園のど真ん中、時を止めることのできる僕はヒステリックとパセティックを足して2で割って、ほんのすこしのドラマティックと希望を持って、毎日外に出かけているのだ。
もうすこし、季節がすすんで、肌寒くなったら、あと3cmほど髪を伸ばして、パーマを当てよう。
誰に見せるわけでもなく、自分自身に言い聞かせるために。
雪の上をすべる乾風にパーマをなびかせて、かじかむ手と手を合わせ、息を吹きかけ、井の頭の空をおおきく仰ぐのだ。
そしてその日、僕は生まれ変わる!
生まれ変わって、サラリーマンになって、正常な頭で、くるくると流線をえがきながら、1匹猫を飼い、1日1本煙草をふかし、つつましく暮らす。
飛行機は今日も、雲をかき分け、流線をえがきながら、はるかかなたへ飛んでゆく。
中野駅北口前の小汚いおじいさまも、心ではふと誰かに気を遣いながら、僕らを流線のかなたへ導いてくれる。
そんな日、僕はくるくるパーマを気怠く指先でいじったあと、ほどけた靴紐をさっと、結ぶ。
ドクターマーチンのスリーピース。
たぶん、あの子も僕と同じタイミングで、ほどけた靴紐を結んでいる。
そうやって、僕らは流線型に収束していく。
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okutaniのTwitter以上, ブログ未満な文章
流線型
2023.10.31